豫州

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豫州(よしゅう)は、中国の歴史的なの一つ。新字体の、予州とも表記する。現代の河南省は「豫」を略称としている。

先秦時代

上古の中国の九州のうち中心にあたる地域とされている。具体的な区域については、『尚書』では「荊河」、荊山から黄河までの区域とし、『爾雅』、『周礼』では「河南」、黄河の南側の区域とし、『呂氏春秋』では「河漢之間」、黄河から漢水までの区域とし、また「周である」とする。いわゆる「中原」と呼ばれる地域であり、古代中国文明の中心地を指す名称であった。『晋書』「地理志」によれば「豫は舒(穏やか)ということである。中和(中央にあって静かで偏りのない)の気を受けて、本質が穏やかであることを言う」と説明する。

秦漢代

紀元前106年(元封5年)、の武帝が全国を13州に分割し各州に刺史を置いた際、現在の河南省の大部分と安徽省の一部にあたる地域を豫州として、潁川汝南の5郡国を属させた。

前漢滅亡後の混乱期には、軍閥の劉永が豫州に割拠したが、光武帝に攻め滅ぼされた。後漢に入って譙を州治とした。後漢末の混乱期になると、軍閥の曹操が献帝を豫州の許県に移住させ、この地を都とした。

魏晋南北朝時代

魏が成立すると国都が洛陽に定められ、許は許昌と改名して五都の一とした。221年黄初2年)に項県を州治とした。さらに227年(太和元年)に安成県を州治とした。

325年(太寧3年)に豫州は石勒の手に落ち、その後後趙から豫州刺史に任ぜられた羌族の首長の姚襄は、豫州で半独立の勢を保つが桓温に打ち破られた。その後、前秦は洛陽の西に豫州を移した。後燕以後は洛陽周辺を豫州とした。一方で南に逃れた東晋329年(咸和4年)に江淮に僑州として豫州を設置した。その後対北戦線の戦況によってその治所は目まぐるしく変化した。

北魏は洛陽周辺を司州とし、豫州を河南に移した(蔡州を参照)。その後東魏により洛州と改称された。

隋代

初には、洛州は4郡7県を管轄した。583年開皇3年)、が郡制を廃すると、洛州の属郡4郡は廃止された。603年(仁寿3年)に嵩州と穀州が廃止され、その管轄県が洛州に移管された。605年大業元年)、陝州・熊州および和州が廃止されると、その管轄県が洛州に移管され、洛州は豫州と改称された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、豫州は河南郡と改称され、下部に17県を管轄した[1]。隋代の行政区分に関しては下表を参照。

隋代の行政区画変遷
区分 開皇元年
洛州 陝州 熊州 和州
河南郡 洛陽郡 河陰郡 陽城郡 崤郡 閿郷郡 宜陽郡 同軌郡 新安郡 伊川郡 新城郡
河南県 洛陽県
緱氏県
河陰県 陽城県
堙陽県
康城県
陝県
崤県
閿郷県
湖城県
宜陽県
甘棠県
昌洛県
熊耳県
澠池県
新安県
東垣県
伏流県 新城県
北陸渾県
区分 大業3年
河南郡
河南県 洛陽県 緱氏県 陽城県 嵩陽県 陝県 閿郷県 宜陽県 寿安県 熊耳県
澠池県 新安県 陸渾県 伊闕県 桃林県 偃師県 鞏県

唐代以降

621年武徳4年)、王世充を平定すると、隋の河南郡が洛州と改められたが、汝南郡が豫州と改められた。713年開元元年)、洛州は河南府と改められた。742年(天宝元年)、河南府は東京とされたが、豫州は汝南郡と改称された。758年(乾元元年)、汝南郡は豫州の称にもどされた。762年宝応元年)、豫州は蔡州と改称された[2]

脚注

  1. ^ 隋書』地理志中
  2. ^ 旧唐書』地理志一
 
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兗州刺史部
青州刺史部
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涼州刺史部
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揚州刺史部
交阯刺史部
 
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隋朝の行政区分
 
606年大業2年)以前(州制)
雍州地区
梁州地区
豫州地区
兗州地区
冀州地区
青州地区
徐州地区
揚州地区
荊州地区
 
607年大業3年)以後(郡制)
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