紀元前391年

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紀元前391年(きげんぜん391ねん)は、ローマ暦の年である。

当時は、「フラウウス、メドゥリヌス、カメリヌス、フスス、マメルキヌス、マメルキヌスが執政武官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元363年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前391年と表記されるのが一般的となった。

他の紀年法

できごと

ペルシア帝国

  • アケメネス朝ペルシア帝国サトラップ(太守)ストルタス (Struthas) は、反スパルタ政策をとり続け、スパルタ側はこれに対抗し、イオニアのギリシア植民都市の総督として派遣していたティブロン (Thibron) に、ストルタスを攻撃するよう命じた。ティブロンはペルシア領内を侵略したが、ストルタスの奇襲に遭い、配下の多数の兵士たちとともに討ち死にした。
  • サラミスの王エウァゴラス (Evagoras) は、キュプロスの支配権をめぐってペルシア勢と戦った。エウァゴラスは、アテナイ勢やエジプト勢の支援も得ながら、キュプロスの大部分やアナトリアの一部の都市にまで支配圏を広げた。

ギリシア

シチリア

共和政ローマ

  • 共和政ローマ独裁官マルクス・フリウス・カミルスが、ウェイイにおける勝利の際の戦利品の分配を不公平に行なったとして訴えられ、自らローマを去った。
  • クィントゥス・ファビウス・アンブストゥス (Quintus Fabius Ambustus) と、同じくファビウス氏族のほかの2人が、ブレンヌスに率いられて移動していたケルト人集団(ローマ人たちは「ガリア人」と呼んでいた)への大使として送られた。ガリア人たちは、ティベリス川沿いに下って前進を続けており、クルシウム (Clusium) に攻城戦を仕掛けていた。クィントゥス・ファビウスの使節団は、揉め事からガリア人の指導者のひとりを殺してしまい、怒ったガリア人は使節団の身柄を引き渡すようにローマに要求した。ローマ側は身柄の引き渡しを拒んだため、ガリア勢はローマへと前進した。

中国

  • が韓の宜陽を攻撃し、六つの邑を取る。
  • 斉の大夫田和が斉の康公の姜貸を海上の孤島に追放し、食邑として城を1つだけ与えられ、祖先の霊を祀ることとされた。

誕生

「Category:紀元前391年生」も参照

死去

「Category:紀元前391年没」も参照

脚注

注釈

出典

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関連項目

ウィキメディア・コモンズには、紀元前391年に関連するカテゴリがあります。
紀元前4世紀の十年紀と各年
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