紀元前307年

世紀 前5世紀 - 前4世紀 - 前3世紀
十年紀 前320年代 前310年代
前300年代
前290年代 前280年代
前310年 前309年 前308年
紀元前307年
前306年 前305年 前304年

紀元前307年(きげんぜん307ねん)は、ローマ暦の年である。

当時は、「カエクスウィオレンス共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元447年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世初期以降、この年は紀元前307年と表記されるのが一般的となった。

他の紀年法

できごと

バビロニア

  • デメトリオス1世は、セレウコス1世と和平を結び、セレウコス1世は自身の王国の支配を強固にした。

エジプト

ギリシア

シチリア

  • シュラクサイ僭主アガトクレスは、拡大する領民の反乱を抑えるため、シュラクサイに戻らなければならなかった。カルタゴに残ったアガトクレスの軍は、すぐに壊滅させられた。
  • カルタゴの将軍ハミルカルは、シュラクサイの侵攻に失敗し、捕えられて殺害された。
  • セジェスタの町は、アガトクレスによって破壊された。

中国

  • 甘茂が韓の宜陽を攻撃したが、5カ月経っても陥落させられなかったため、武王は甘茂を召還して軍を撤退させようとした。甘茂が息壌の盟約を武王に思い出させると、武王は大規模な援軍を編成して、甘茂を助けた。宜陽が陥落すると、韓の公仲侈が秦に入国して陳謝し、講和を願い出た。
  • 秦の武王は力比べを好み、力士の任鄙・烏獲・孟説らはみな大官に上った。この年の8月、武王と孟説は鼎を持ち上げる勝負をしていたところ、武王は脈が絶えて突然死した。孟説の一族はみな処刑された。武王には子がいなかったため、燕に人質として異母弟の稷(昭襄王)を擁立して即位させた。昭襄王の母の宣太后が朝政の実権を握り、武王の遺臣の樗里疾甘茂向寿・公孫奭らが国政を運営した。
  • 趙の武霊王中山国を攻撃し、房子に達した。武霊王は趙軍に胡服騎射を採用して、軍事の強化を図った。

哲学

誕生

「Category:紀元前307年生」も参照

死去

「Category:紀元前307年没」も参照
  • 武王 - の君主。

脚注

注釈

出典

[脚注の使い方]

関連項目

ウィキメディア・コモンズには、紀元前307年に関連するカテゴリがあります。
紀元前4世紀の十年紀と各年
《前410年代 《前401年 前6世紀 前5世紀 - 紀元前4世紀 - 前3世紀 前2世紀 前300年》 前290年代》
前400年代 前400年
前390年代 前399年 前398年 前397年 前396年 前395年 前394年 前393年 前392年 前391年 前390年
前380年代 前389年 前388年 前387年 前386年 前385年 前384年 前383年 前382年 前381年 前380年
前370年代 前379年 前378年 前377年 前376年 前375年 前374年 前373年 前372年 前371年 前370年
前360年代 前369年 前368年 前367年 前366年 前365年 前364年 前363年 前362年 前361年 前360年
前350年代 前359年 前358年 前357年 前356年 前355年 前354年 前353年 前352年 前351年 前350年
前340年代 前349年 前348年 前347年 前346年 前345年 前344年 前343年 前342年 前341年 前340年
前330年代 前339年 前338年 前337年 前336年 前335年 前334年 前333年 前332年 前331年 前330年
前320年代 前329年 前328年 前327年 前326年 前325年 前324年 前323年 前322年 前321年 前320年
前310年代 前319年 前318年 前317年 前316年 前315年 前314年 前313年 前312年 前311年 前310年
前300年代 前309年 前308年 前307年 前306年 前305年 前304年 前303年 前302年 前301年