長井政光

長井 政光(ながい まさみつ、文久元年11月19日(1861年12月20日[1][2] - 1944年昭和19年)11月18日[1])は、明治から大正時代の政治家実業家愛媛県松山市長。

経歴・人物

伊予松山藩士・仙波輝広の長男として松山城下に生まれ、1879年(明治12年)7月に長井政金の養子となり、家督を相続する[1][2][3]

1896年(明治29年)1月、松山市会議員に当選[1]。さらに、1908年(明治41年)2月25日、松山市長に就任した[1][2][4]1922年(大正11年)2月の任期満了まで市長を務め、小学校の増設、道路改修、路面電車の敷設、下水道工事、隣接町村の一部編入、松山高等学校の誘致など市の発展に貢献した[1]

退官後は、実業界に入り三津浜煉瓦の社長を務めた[3]

親族

  • 岳父:清水義彰(愛媛県多額納税者、実業家)[2][3]

脚注

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  1. ^ a b c d e f データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム、2019年7月9日閲覧。
  2. ^ a b c d 人事興信所 1915, な79頁.
  3. ^ a b c 人事興信所 1928, ナ135頁.
  4. ^ 歴代三役 松山市ホームページ、2019年7月9日閲覧。

参考文献

  • 人事興信所『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1703995 
  • 人事興信所『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2127124 
2005年1月1日編入
北条市長
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