福井空襲
福井空襲 | |
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戦争:第二次世界大戦 日本本土空襲 | |
年月日:1945年(昭和20年)7月19日 | |
場所:福井県福井市 | |
結果:福井市の壊滅 | |
交戦勢力 | |
日本軍 | アメリカ軍 |
戦力 | |
戦闘機-数機 高射機関砲 | 米軍第20航空軍第58航空団 ボーイングB-29 127機 焼夷弾 10万本以上(865トン、953トンとも)[1] |
損害 | |
死者 1,576+108人[1] 罹災人口 85,603人 焼失家屋 2万戸以上[1] | - |
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福井空襲(ふくいくうしゅう)は、第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)7月19日の午後11時24分から翌日午前0時45分にかけてアメリカ軍により行われた福井県福井市に対する空襲(戦略爆撃)である。福井大空襲といわれることも少なくない。
概要
テニアン島を出撃した127機のB-29編隊による81分間の集中爆撃を受け、壊滅的な被害となった[1]。米軍の評価によると、福井市街地の損壊率は84.8%で人口103,049のうち罹災者85,603、世帯数25,691のうち罹災世帯は21,992にのぼった。死者は1,576人(女915人、男661人)にのぼり、重軽傷者6,527人で内108人はその後死亡した。
地方都市への爆撃としては富山市、沼津市に次いで全国トップクラスであった。
同時間帯には、福井市のほか茨城県日立市、千葉県銚子市、愛知県岡崎市が空襲を受けた。
また、この空襲によって廃墟となった福井市を、1948年に福井大震災が襲い、バラック住居の多くが倒壊して被害を拡大した。
日本軍の迎撃体制
福井市は、北陸地方ではある程度の規模を持つ都市のひとつであったが、一地方都市にしか過ぎなかったため、重要な港湾都市として軍の施設も設置されていた敦賀市の防空態勢と比べて極めて貧弱であった。従って福井市の防空体制は、敵機の迎撃を目的としたものではなく、消火や住民の避難等消極的な受身の態勢しかとることが出来ず、計画もほぼそれに従ったものであった。
布陣
福井市には敦賀市と同じく戦力の配備はあったが敦賀市と比べて極僅かであった。高射機関砲や福井飛行場等に戦闘機等が配備される等していたが、所属部隊が遠い、数が余りにも少ない、B29には届かないなどのため全く役に立たなかったという。なお、敦賀空襲を受けての戦力増強があったかは不明である。以下の兵器が配備されていた。
- 高射機関砲
- 市内に立地していたビルの屋上等に設置されていたとされる。市内には高射砲等重兵器等の配備は全く無かった。機関砲の種類および所属部隊の記述は「福井空襲史」に無く不明。
- 迎撃機
- 戦闘機2~3機。しかし、福井飛行場に展開していた航空隊は長野県を管轄する部隊のものであり、当然長野県を中心として迎撃態勢を取っていたという。そのため空襲時には殆ど全く役に立たなかったなどと「福井空襲史」に記述がある。長野県所属の部隊という以外詳細不明。
脚注
- ^ a b c d 福井市における戦災の状況(福井県)- 一般戦災ホームページ
関連項目
参考文献
- 福井空襲史
- 図説福井県史 近代23 敦賀・福井空襲
- 国立公文書館デジタルアーカイブ 戦災概況図 福井(第一復員省による作成)
- 福井市広報広聴課写真帳 - 戦災 (福井市による作成、福井市立郷土歴史博物館所蔵デジタルアーカイブ)
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