武田秀山

武田秀山

武田 秀山(たけだ ひでのぶ、嘉永6年12月30日(1854年1月28日[1] - 明治35年(1902年12月24日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。体操練習所(のちの日本体育大学)所長。香宗我部氏(中山田氏)の子孫。

履歴

嘉永6年(1853年)、高知城下南与力町(現在の高知市)に生まれる。明治3年(1870年)、土佐藩兵伍長で御親兵に選ばれ、陸軍中尉に任官。

第1師団参謀などを経て、1893年(明治26年)2月、歩兵第21連隊長に就任。日清戦争には混成第9旅団長・大島義昌陸軍少将の隷下として出兵。成歓の戦い、平壌の戦いなどに従軍した。1894年(明治27年)11月、歩兵大佐に昇進し、1895年(明治28年)1月、第1軍付となり終戦を迎えた。同年8月、再び歩兵第21連隊長に就任。

1895年12月、第1師団参謀長となり、1898年(明治31年)3月、陸軍少将に進級し歩兵第2旅団長に就任。1902年(明治35年)3月、台湾総督府陸軍幕僚参謀長として赴任したが、リウマチマラリア・肺病を併発し[1]、同年12月に須磨で死去した。先祖の香宗我部秀通を慕っていたため、秀通の墓に隣接して葬られた。墓標を松の木にしたのも、秀通の墓に倣ったもので、山縣有朋が寄贈した。しかし1971年昭和46年)に台風のため倒れ、石の墓標に建て替えられた。

親族

栄典

位階
勲章

脚注

  1. ^ a b c d 『国民過去帳 明治之巻』(尚古房、1935年)p.668-669
  2. ^ 『官報』第4448号「叙任及辞令」1898年5月2日。
  3. ^ 『官報』第5845号「叙任及辞令」1902年12月25日。
  4. ^ 『官報』第3430号「叙任及辞令」1894年12月3日。
  5. ^ 『官報』第3693号「叙任及辞令」1895年10月19日。

参考文献

  • 『高知県人名事典』高知市民図書館、1970年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。

外部リンク

  • 武田秀山 ~早逝が惜しまれる小山地~ - 軍人顕彰会
軍職
先代
友田美喬
一戸兵衛
歩兵第21連隊
第2代:1893年2月13日 - 1895年1月10日
第4代:1895年8月10日 - 1895年12月26日
次代
一戸兵衛
山中信儀
先代
内山小二郎(心得)
第1師団参謀長
第5代:1895年12月31日 - 1898年3月3日
次代
伊地知季清
先代
塩屋方圀
歩兵第2旅団長
第?代:1898年3月3日 - 1902年3月10日
次代
中村覚
先代
中村覚
台湾総督府陸軍幕僚参謀長
第4代:1902年3月10日 - 1902年12月24日
次代
谷田文衛
日本体育大学学長(日本体育会体操練習所長:1897年 - 1900年)
日本体育会体操練習所長
  • 隠岐重節 1893-1894
  • 東条英教 1894-1897
  • 武田秀山 1897-1900
日本体育会体操学校長
日本体育専門学校長
  • 二荒芳徳 1941-1946
  • 事務取扱 秋山四麿 1946-1947
  • 事務取扱/校長 飯塚晶山 1947/1947-1948
  • 渡辺銕蔵 1948-1949
  • 事務取扱/校長 栗本義彦 1949-1950/1950-1951
日本体育大学長
  • 事務取扱/初代 栗本義彦 1949-1950/1950-1972
  • 代行/第2代 清水正一 1972-1973/1973-1979
  • 第3代 岡田俊彦 1979-1982
  • 第4代 岩間英太郎 1982-1988
  • 代行 綿井永寿 1988-1989
  • 第5代 稲垣安二 1989-1992
  • 第6代 綿井永寿 1992-1998
  • 第7代 塔尾武夫 1998-2001
  • 第8代 長谷川正明 2001-2005
  • 代行 落合卓四郎 2005
  • 第9代 伊藤孝就 2005-2007
  • 代行/第10代 落合卓四郎 2007/2007-2010
  • 代行 塔尾武夫 2010
  • 第11代 谷釜了正 2010-2017
  • 第12代 具志堅幸司 2017-
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