呂凱

曖昧さ回避 この項目では、呂不韋の子孫とされる蜀漢の人物について説明しています。呂岱の子である呉の人物については「呂凱 (孫呉)」をご覧ください。
呂凱
成都武侯祠の呂凱塑像
蜀漢
雲南太守・陽遷亭侯
出生 生年不詳
益州永昌郡不韋県
死去 没年不詳
益州雲南郡
拼音 Lǚ Kǎi
季平
主君 昭烈帝懐帝
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三国志 巻43

呂 凱(りょ がい、生没年不詳)は、中国三国時代蜀漢の武将・政治家。字は季平。『三国志』蜀志に伝がある。

生涯

代、呂不韋とその一族は秦王政の命により巴蜀の地に流された。前漢の武帝の治世になって不韋県(中国語版)が置かれると、呂氏はそこに移住して異民族への教化政策の任を果たした。これが呂凱の先祖であると言われている[1]

呂凱は益州永昌郡不韋県(現在の中華人民共和国雲南省保山市隆陽区)の人。はじめ郡に出仕し五官掾功曹となった。章武3年(223年)に蜀漢の昭烈帝劉備永安で崩じると、蜀漢を侮った雍闓らは呉に通じ反乱を起こした。

当時の永昌郡は都の成都方面からの道が途絶していたが、呂凱は永昌郡の府丞(中国語版)である王伉と協力して郡境を閉鎖し、呉によって永昌太守に任命された雍闓の侵攻を防いだ。雍闓からは檄文を度々送られて脅迫を受けたが、呂凱は道理を尽くして反論し、蜀漢の懐帝劉禅に服属するよう、逆に雍闓らに勧めた。呂凱の威儀と恩愛は広く知れ渡っていたため、永昌の地を守り抜き節義を全うすることができた。

建興3年(225年)、蜀漢の丞相であった諸葛亮南征の軍を起こしたが、それ以前に雍闓は高定の部下に殺害された。諸葛亮は南中の地に到着すると、呂凱・王伉の功績を上奏し賞賛した。

同年春3月から秋にかけて、南中の反乱を鎮圧した諸葛亮は益州郡を建寧郡と改名し、建寧郡と永昌郡の一部を割いて雲南郡を新設した[2]。呂凱は新設された雲南太守に任命され、陽遷亭侯に封じられた。

12月に諸葛亮は成都に帰還した[3]が、南蛮は再び反乱を起こし、呂凱は反乱軍に殺害された。子の呂祥(中国語版)が爵位を継いだ。

呂祥は蜀漢が滅ぶとに仕え、南夷校尉に任命された。子孫は代々永昌太守となり、成漢の武帝李雄が永昌郡に進出してきた際には服属を拒否したという[1]

『三国志』の撰者である陳寿は呂凱について「節操を守り微動だにしなかった。自己の長所によって名声を得たのは時代に必要とされたからだ」と評している。

創作作品における呂凱

小説『三国志演義』でも王伉と共に永昌郡を守り抜いた人物として登場し、南蛮征伐に来た諸葛亮に「平蛮指掌図」を献上している。しかし、『三国志演義』の原典となった『三国志平話』や『花関索伝』などでは、南征軍と敵対して関索と一騎討ちをしている。

出典

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  1. ^ a b 孫盛『蜀世譜』
  2. ^ 「後主伝」・「諸葛亮伝」
  3. ^ 「後主伝」
陳寿撰 『三国志』 に立伝されている人物および四夷
魏志
(魏書)
巻1 武帝紀
巻2 文帝紀
巻3 明帝紀
巻4 三少帝紀
巻5 后妃伝
巻6 董二袁劉伝
巻7 呂布臧洪伝
巻8 二公孫陶四張伝
巻9 諸夏侯曹伝
巻10 荀彧荀攸賈詡伝
巻11 袁張涼国田王邴管伝
巻12 崔毛徐何邢鮑司馬伝
巻13 鍾繇華歆王朗伝
巻14 程郭董劉蔣劉伝
巻15 劉司馬梁張温賈伝
巻16 任蘇杜鄭倉伝
巻17 張楽于張徐伝
巻18 二李臧文呂許典二龐
閻伝
巻19 任城陳蕭王伝
巻20 武文世王公伝
巻21 王衛二劉傅伝
巻22 桓二陳徐衛盧伝
巻23 和常楊杜趙裴伝
巻24 韓崔高孫王伝
巻25 辛毗楊阜高堂隆伝
巻26 満田牽郭伝
巻27 徐胡二王伝
巻28 王毌丘諸葛鄧鍾伝
巻29 方技伝
巻30 烏丸鮮卑東夷伝

(蜀書)
巻31 劉二牧伝
巻32 先主伝
巻33 後主伝
巻34 二主妃子伝
巻35 諸葛亮伝
巻36 関張馬黄趙伝
巻37 龐統法正伝
巻38 許糜孫簡伊秦伝
巻39 董劉馬陳董呂伝
巻40 劉彭廖李劉魏楊伝
巻41 霍王向張楊費伝
巻42 杜周杜許孟来尹李譙
郤伝
巻43 黄李呂馬王張伝
巻44 蔣琬費禕姜維伝
巻45 鄧張宗楊伝
呉志
(呉書)
巻46 孫破虜討逆伝
巻47 呉主伝
巻48 三嗣主伝
巻49 劉繇太史慈士燮伝
巻50 妃嬪伝
巻51 宗室伝
巻52 張顧諸葛歩伝
巻53 張厳程闞薛伝
巻54 周瑜魯粛呂蒙伝
巻55 程黄韓蔣周陳董甘淩
徐潘丁伝
巻56 朱治朱然呂範朱桓伝
巻57 虞陸張駱陸吾朱伝
巻58 陸遜伝
巻59 呉主五子伝
巻60 賀全呂周鍾離伝
巻61 潘濬陸凱伝
巻62 是儀胡綜伝
巻63 呉範劉惇趙達伝
巻64 諸葛滕二孫濮陽伝
巻65 王楼賀韋華伝