ナポレオン・ルイ・ボナパルト

ローデウェイク2世
Lodewijk II
ホラント国王
在位 1810年7月1日 - 1810年7月9日
別号 ベルク大公

全名 ナポレオン・ルイ・ボナパルト
出生 1804年10月11日
フランスの旗 フランス帝国パリ
死去 (1831-03-17) 1831年3月17日(26歳没)
教皇領フォルリ
埋葬  
フランスの旗 フランスイル=ド=フランス、サン=ルー=ラ=フォレ
配偶者 シャルロット・ナポレオーヌ・ボナパルト
家名 ボナパルト家
父親 ルイ・ボナパルト
母親 オルタンス・ド・ボアルネ
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ナポレオン・ルイ・ボナパルト(Napoleon Louis Bonaparte, 1804年10月11日 - 1831年3月17日)は、ルイ・ボナパルトフランス皇帝ナポレオン1世の弟、ホラント王ローデウェイク1世)とオルタンス・ド・ボアルネ(ナポレオンの最初の妻ジョゼフィーヌの娘)の第2子である。兄のナポレオン・シャルルは1807年にわずか4歳で死去したため、後を継いでホラント王国の王太子となった。また、当時はまだ子のなかった皇帝の最年長の甥となり、1811年までは皇位継承順位第1位であった。

1809年、ナポレオン1世によってベルク大公に任じられ、1813年までこの地位にあった。

1810年に父が退位するとホラント王ローデウェイク2世として即位し、フランス軍が侵攻するまでの10日間、君臨していた。

1815年、ワーテルローの戦いの後にナポレオンが退位させられると、ブルボン家が再びフランスの玉座を取り戻した。ナポレオン・ルイは亡命したが、ボナパルト家はナポレオン帝国再興の夢を決して捨てなかった。

ナポレオン・ルイは、ナポレオン1世の長兄ジョゼフの末娘で従姉に当たるシャルロットと結婚した。

その後、イタリアでカルボナリに参加していたが、オーストリアの官憲から逃れて潜伏中の1831年3月17日に、麻疹のため死去した。ナポレオン1世の唯一の嫡出子ナポレオン2世に1年先立つ死だった。イル=ド=フランスのサン=ルー=ラ=フォレに葬られている。

やがて、ナポレオン帝国は1852年に弟のシャルル・ルイ=ナポレオン(ナポレオン3世)が復活させた。

ホラント国王
ネーデルラント国王
  • ウィレム1世1815-1840
  • ウィレム2世1840-1849
  • ウィレム3世1849-1890
  • ウィルヘルミナ1890-1948
  • ユリアナ1948-1980
  • ベアトリクス1980-2013
  • ウィレム=アレクサンダー2013-現在
カテゴリ カテゴリ
先代
ナポレオン1世
ベルク大公
1809年 - 1813年
次代
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