ドミトリー・ミハイロヴィチ(ロシア語: Дми́трий Миха́йлович, ラテン文字転写: Dmitrii Mikhailovich; 1299年 - 1326年9月15日)は、トヴェリ大公(在位:1319年 - 1326年)、ウラジーミル大公(在位:1322年 - 1326年)父はミハイル・ヤロスラヴィチ、母はロストフ公の娘アンナ・ドミトリエヴナ。モスクワのユーリー3世の奸計により殺害された父の敵をサライで討ち、その後ウズベク・ハンにより処刑される。死後、トヴェリ大公位は弟アレクサンドル・ミハイロヴィチが継いだ。
事跡
幼少期から戦いに出撃していた。
- 1314年に父がハン国に行き留守の際にノヴゴロド人が蜂起を起こすと、それを鎮圧して市長を追する。
- 1318年には父をサライに連れて行く。彼の帰国後に父がユーリー3世の計略で殺害されることになる。
- 1319年末に父の死の知らせを受け、トヴェリ公位に就く。
- 1320年末に、リトアニア大公ゲディミナスの娘マリアと結婚する。
- 1321年に、ハン国の貴族タヤンチャルがトヴェリ領であったカシンに来て、町を荒廃させる。
- 1322年に、ユーリー3世が、ルーシからハンに入る収入に手をつけていることをサライ・ベルケに報告する。
- 1324年には、ハンの許からユーリーに使節が送られた。
- 1325年にハンの陣営においてユーリーと出会い、ウズベク・ハンを目の前にして、その場でユーリーを殺害する。
- 1326年にそのまま処刑される。
- 先代
- ユーリー3世
| - ウラジーミル大公
- 1322年 - 1326年
| - 次代
- アレクサンドル・ミハイロヴィチ
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![ロシア国旗](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f3/Flag_of_Russia.svg/23px-Flag_of_Russia.svg.png) ロシアの君主 ![ロシア帝国の小紋章](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/be/Lesser_coat_of_arms_of_the_Russian_Empire.svg/16px-Lesser_coat_of_arms_of_the_Russian_Empire.svg.png) |
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ウラジーミル・ スーズダリ大公 | - アンドレイ1世1168–1174
- ミハイル1世1174–1176
- フセヴォロド3世1176–1212
- ユーリー2世1212–1216
- コンスタンチン1216–1218
- ユーリー2世(復位)1218–1238
- ヤロスラフ2世1238–1246
- スヴャトスラフ3世1246–1248
- ミハイル・ホロブリト(ロシア語版、英語版)1248
- アンドレイ2世(ロシア語版、英語版)1248–1252
- アレクサンドル1世1252–1263
- ヤロスラフ3世1264–1271
- ヴァシーリー・ヤロスラヴィチ1272–1277
- ドミトリー1世1277–1294
- アンドレイ3世1294–1304
- ミハイル2世1304–1318
- ユーリー3世1318–1322
- ドミトリー2世1322–1326
- アレクサンドル2世1326–1327
- イヴァン1世1325–1340
- セミョーン1340–1353
- イヴァン2世1353–1359
- ドミトリー3世(ロシア語版、英語版) 1359–1362
- ドミトリー4世1362–1389
- ヴァシーリー1世1389–1425
- ヴァシーリー2世1425–1462
- イヴァン3世1462–1505
- ヴァシーリー3世1505–1533
- イヴァン4世1533–1547
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モスクワ大公 | |
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ツァーリ | |
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インペラートル | ロマノフ朝 | - ピョートル1世1721–1725
- エカチェリーナ1世1725–1727
- ピョートル2世1727–1730
- アンナ1730–1740
- イヴァン6世1740–1741
- エリザヴェータ1741–1762
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ホルシュタイン=ゴットルプ= ロマノフ朝 | - ピョートル3世1762
- エカチェリーナ2世1762–1796
- パーヴェル1世1796–1801
- アレクサンドル1世1801–1825
- ニコライ1世1825–1855
- アレクサンドル2世1855–1881
- アレクサンドル3世1881–1894
- ニコライ2世1894–1917
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