カルガクス

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ジェイムズ・テイラー(英語版)著『スコットランド図説史』(The Pictorial History of Scotland)より、グラウピウス山の戦いを前に演説を行うカルガクス。(1859年

カルガクスCalgacus)(時にカルガコスCalgacos)あるいはガルガクスGalgacus)、生没年不詳)は、歴史家タキトゥスによるとカレドニア連合の族長で、紀元83年あるいは84年の「グラウピウス山の戦い」において、グナエウス・ユリウス・アグリコラが率いるローマ軍とスコットランド北部で交戦した。

彼の名前はケルト語の「*calg-ac-os」(剣を帯びる者)と解釈でき、ゲール語の「calgach」(「喧嘩早い」あるいは「獰猛な」の意味)と外観的に符合するものである。名前か、あるいは授与された称号であるのかは明らかでない[1]

経歴

ローマによるブリタンニア北部遠征(紀元80年から84年)の経路。

歴史に記録された最初のカレドニア人ピクト人)である[1][2]。彼を大きく取り上げる唯一の歴史資料がタキトゥスの『アグリコラ(英語版)』で、「族長格の中にあって、生まれと武勇において最も秀でた者」と描写している[3]。タキトゥスはカルガクスのものとする演説を記述して、カルガクスがグランピアン山地(英語版)戦いに先立ってそれを行ったと述べる。演説はローマ人によるブリタンニアの搾取を語り、配下の軍勢を戦いに向けて奮起させるものである。

以下の抜粋は歴史家タキトゥスが『アグリコラ』においてカルガクスに帰した演説から採られているが、カルガクスがこの戦いでタキトゥスの岳父(グナエウス・ユリウス・アグリコラ[4][注釈 1]を相手としていた点で読み手は偏向を想定するであろうと、大半の歴史家は注記している[8][9]

この戦争の起源、そして我々の立場の宿命を考えると常に、私は今日この日が、そして諸君とのこの連合が、ブリタンニア全土の自由の始まりとなるという確信の念を覚える。我々皆にとって、隷属とは未知の話である。我々の彼方に土地はなく、海でさえ安全ではなく、我々のようにローマ船団からの脅威を受けている。従って、勇者が栄光を見出す戦争や戦闘に、臆病者でさえも安全を見出すこととなる。様々な帰趨をもってローマ人が阻止されてきたこれまでの争いは、ブリタンニアの最も誉れ高い民族として国の中心部に住まい、征服された者の岸辺からは遠く、隷属の弊風で自らの眼を汚すことなく済んでいる我々に、いまだ救済の最後の望みを残している。土地と自由の最果ての境界に住まう我々にとって、ここブリタンニアの栄華の隔絶した聖域が、今に至るまで護りであった。しかしながら今やブリタンニアの最遠端は広く開かれ、そして未知は素晴らしきものと映るのが常である。それでも我々の彼方に部族はおらず、全くのところ波と岩のみであり、それでもなおさらに恐るべきローマ人から、服従と従属でもってその圧政を逃れる努力は空しいものである。世界の盗人としてあまねく略奪で大地を萎えさせておいて、彼らは海原を漁る。敵が富裕であれば、彼らは強欲となる。貧しければ、彼らは統治を渇望する。東も西も彼らを満たせてはいない。人々の間にあって彼らのみが、貧困と富とを同等の熱意で欲している。盗みと殺戮と略奪に、彼らは帝権という偽りの名を呈する。彼らは寂寞の地を造り出し、それを平和と呼ぶ。 — 『アグリコラ』第30節

カルガクスは戦闘中、あるいはその後には言及されておらず、カレドニア人を敗走させた後にアグリコラが同道した人質の一人として名を挙げられてもいない[10]。カルガクスとその演説の双方が、タキトゥスの創作による虚構でもありうる[11][12][2]

彼の演説はしばしば、「彼らは荒れ地を造り、それを平和と呼ぶ」と引用されている[13]

注記

注釈

  1. ^ アグリコラウェスパシアヌス帝治下の紀元77年に補欠執政官職を務めた後[5]、彼の娘がタキトゥスと婚姻した[6]。次いでアグリコラはブリタンニア総督に任命され、8年間を当地で過ごした[7]

出典

  1. ^ a b Grout, James. “The Battle of Mons Grapius: Calgacus” (英語). Encycropaedia Romana. 2022年3月13日閲覧。
  2. ^ a b レンウィック (1994), p. 26.
  3. ^ 『アグリコラ』第29節, 國原訳 (1996) p. 188.
  4. ^ レンウィック (1994), p. 25.
  5. ^ 『アグリコラ』第9節, 國原訳 (1996), p. 142 (訳者注).
  6. ^ 『アグリコラ』第9節, 國原訳 (1996), p. 140.
  7. ^ 『アグリコラ』, 國原訳 (1996), pp. 228, 230 (附録一・二).
  8. ^ Campbell (2010).
  9. ^ 『アグリコラ』, 國原訳 (1996), pp. 256-258 (訳者解説).
  10. ^ 『アグリコラ』第38節, 國原訳 (1996), p. 206.
  11. ^ Braund (1996), pp. 8, 169.
  12. ^ Wooliscroft & Hoffmann (2006), p. 217.
  13. ^ Beard, Mary (2006年7月24日). “A Don's Life: They make a desert and call it peace” (英語). The Times Literary Supplement. 2013年12月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年3月13日閲覧。

参考文献

  • タキトゥス『ゲルマニア アグリコラ』國原 吉之助(訳)、ちくま学芸文庫、1996年。ISBN 978-4480082787。 
    • (Tacitus, Cornelius. “The Germany and the Agricola of Tacitus” (英語). Project Gutenberg. 2022年3月13日閲覧。)
    • (Tacitus, Cornelius. “The Germany and the Agricola of Tacitus” (ラテン語). Project Gutenberg. 2022年3月13日閲覧。)
  • フランク・レンウィック『とびきり哀しいスコットランド史』小林 章夫(訳)、筑摩書房、1994年。ISBN 4-480-85661-7。 
    • (Renwick, Frank (1986) (英語). Scotland Bloody Scotland. Edinburgh: Canongate. ISBN 978-0862411169 )
  • Braund, David (1996) (英語). Ruling Roman Britain: Kings, Queens, Governors and Emperors from Julius Caesar to Agricola. London & New York: Routledge. ISBN 978-0415008044 
  • Campbell, Duncan B (2010) (英語). Mons Graupius AD 83: Rome's battle at the edge of the world. O'Brogain, Sean (Illustration). Oxford: Osprey Publishing. ISBN 978-1846039263 
  • Wooliscroft, David J; Hoffmann, Birgitta (2006) (英語). Rome's First Frontier: the Flavian Occupation of Northern Scotland. Stroud: Tempus. ISBN 978-0752430447 
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